エコール・ド・パリの代表的な画家4選!代表作や生い立ちを解説
1920年代にパリで活動をしていた芸術家たちのことを「エコール・ド・パリ」と呼びます。パリは芸術に関して長い歴史があり、有名な芸術家や文化人がフランスに集まり、交流と発展が盛んに行われていました。エコール・ド・パリの中でも有名なのが、藤田嗣治、荻須高徳、佐伯祐三、モーリス・ユトリロの4名です。
この記事では、この4名について、生い立ちや代表作を紹介します。彼らのキャリアや作品について詳しく知りたい方はぜひ参考にしてください。
注目の画家①:東京都出身「藤田嗣治」
藤田嗣治(ふじた つぐはる)は、明治時代から昭和にかけて活躍した日本の画家です。西洋絵画と日本の伝統美術を融合させた独特のスタイルで、芸術界に大きな影響を与えました。彼は1913年にパリに渡っています。
1886年 東京府で生まれる
藤田嗣治は、1886年に東京の上野で、軍医であった父・藤田嗣章(ふじた ししょう)のもとに生まれました。父親は陸軍の軍医総監を務めるなど、当時のエリート層に属しており、藤田家は比較的裕福な家庭でした。母親も教養深く、彼の幼少期から学問や芸術に親しむ環境が整っていたとされています。
1903年 東京美術学校に入学する
藤田は、父親の希望に反して医師の道を選ぶことなく、絵画の道に進むことを決意しました。1903年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し、西洋画を学び始めます。
1913年 パリへ渡る
1907年に卒業後、洋画家としての道を歩み始め、1913年にはフランスのパリに渡り、当時の前衛芸術家たちと交流を深めました。
藤田はパリで、パブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニなどの著名な芸術家たちと親交を結びます。彼の作品は、モンパルナスの芸術家コミュニティで高く評価されました。1917年の個展では、その独特の技法で多くの観客を魅了し、彼の名声が一気に広がりました。藤田の作品は、西洋の技術と日本の伝統的な美意識を融合させたものであり、特に乳白色の肌を表現する技法は「藤田の白」として知られています。

また、藤田の絵画技法は、非常に独自性が高く、特に「乳白色の肌」を描くための技術が際立っています。この技法は、油絵の具に加え、タルク(滑石)を使用して光沢のない質感を生み出すもので、彼の作品に特徴的な柔らかさと繊細さを与えました。
また、細い線で描かれた輪郭や、日本の浮世絵からの影響を受けた平面的な構成も彼のスタイルを特徴づけています。
1930年代 一時的に日本に帰国し国内で活躍する
藤田は1930年代に日本に帰国し、第二次世界大戦中は日本政府の依頼で戦争画を制作します。彼の戦争画は大規模で劇的な構図を持ち、プロパガンダ的な側面も含んでいたため、戦後の評価は分かれました。戦後、藤田は戦争協力に対する批判を受け、一部の日本の芸術界から距離を置かれることになりました。
1955年 フランス国籍を取得する
戦後、藤田は再びフランスに戻り、1955年にフランス国籍を取得しました。彼は晩年、カトリック教会に改宗し、フランスのランスにあるノートルダム・ド・ラ・ペ神父記念礼拝堂(Chapelle Notre-Dame-de-la-Paix)の壁画を手がけました。この礼拝堂の制作は彼の晩年の重要な業績の一つとされています。
また、藤田嗣治は1968年にチューリッヒで死去し、遺体はランスの礼拝堂に埋葬されました。彼の作品は現在、世界各地の美術館に所蔵されており、その中でも特にフランスと日本で高く評価されています。彼の独自の画風と国際的な活動は、東西の美術の架け橋としての役割を果たし、後世の画家たちに大きな影響を与えました。
注目の画家②:愛知県出身「荻須高徳」
荻須高徳(おぎす たかのり)は、日本を代表する洋画家であり、フランス・パリを拠点に活躍しました。荻須は、パリの街並みや建物を題材にした作品で知られ、独特の陰影や質感を表現するのが特徴です。
1901年 愛知県で生まれる
荻須高徳は、1901年に愛知県稲沢市に生まれました。彼の家族は比較的裕福で、彼は幼少期から穏やかな環境で育ちました。彼が本格的に芸術に興味を持ち始めたのは、学生時代に絵画に触れたことがきっかけとされています。
1921年 東京美術学校に入学する
1921年、荻須は東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学し、西洋画を学び始めます。荻須はここで洋画を学び、藤島武二に師事しました。藤島武二は、当時の日本の洋画界を代表する画家の一人であり、荻須に西洋絵画の基礎を教えました。
1927年 フランスへ留学する

荻須は1927年にフランスのパリに渡り、そこで本格的な画家としてのキャリアをスタートさせました。彼はパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学び、当時のヨーロッパ美術の中心地であったパリで、ピカソやシャガールなど多くの著名な画家たちと接触します。荻須は彼らから強い影響を受けながらも、自身のスタイルを築き上げました。
彼が特に惹かれたのは、パリの街並みでした。石畳の道や古い建物、カフェや店舗の風景など、パリの独特の雰囲気を捉えた作品が多く描かれました。荻須の作品は、細部まで緻密に描かれた写実的な描写と、穏やかで静謐な雰囲気を特徴としています。彼はパリの街を愛し、生涯にわたってその魅力を追求しました。
荻須の作風は、写実的でありながらも詩的な感覚を持っています。彼の作品は、パリの街角や建物を忠実に描写しながらも、そこに独自の静かな美しさや郷愁を感じさせるものが多いです。
彼はパレットナイフやブラシを使い、石造りの建物の質感や光と影の微妙なニュアンスを表現しました。また、色彩は控えめで、くすんだトーンを多用することで、古い建物や街並みの歴史を感じさせるような効果を生み出します。
荻須はまた、エッチング(銅版画)にも取り組んでおり、こちらでも緻密な描写力が発揮されています。彼のエッチング作品は、ペンやインクで描かれたようなシャープな線描が特徴で、細部へのこだわりが強く感じられるでしょう。
1940年代 展覧会で高く評価される
荻須は第二次世界大戦中、一時帰国することなくパリに留まりました。戦時中のパリでの生活は困難を極めましたが、彼はその間も制作を続けます。戦後、荻須は再び国際的な評価を受け、1946年にはフランス政府から「レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ」を受章しました。これは、フランス文化への貢献が評価されたものであり、荻須がパリで重要な地位を築いたことを示しています。
その後、荻須は日本とフランスを往復しながら作品制作を続け、1960年代には東京国立近代美術館などで個展が開催されました。彼の作品は日本国内でも高く評価され、多くの美術館に収蔵されています。
晩年の荻須は、パリ郊外にアトリエを構え、引き続きパリの風景を描き続けました。1986年にフランスで死去し、彼の遺産は現在もパリと日本で大切に保存されています。荻須の作品は、単なる風景画にとどまらず、彼自身の感性や視点が色濃く反映されたものであり、現在でも多くの人々に愛されています。
注目の画家③:大阪府「佐伯祐三」
佐伯祐三(さえき ゆうぞう)は、大正時代から昭和初期にかけて活躍した洋画家です。特にフランス・パリを舞台にした作品で知られています。彼は30年という短い生涯の中でさまざまな作品を残しています。
1898年 大阪市に生まれる
佐伯祐三は、1898年に大阪市に生まれます。父親は印刷業を営んでおり、家族は中流階級に属していました。佐伯は、幼少期から絵を描くことに興味を持ち、周囲の人々からもその才能を認められていました。
1917年 京都市立絵画専門学校に入学する
在学中、佐伯は洋画家の藤島武二に師事し、西洋美術の技法や理論を学びました。1921年に卒業後、彼は日本国内で洋画家として活動し始めますが、1924年にはフランス・パリに渡ることを決意します。
1924年 渡仏する
佐伯祐三が渡仏した1924年当時、パリは世界の美術の中心地であり、多くの前衛的な芸術家たちが集まっていました。佐伯もその一員として、パリの街並みや建物を主な題材とした作品を制作します。彼は、伝統的な写実主義から離れ、独自の表現主義的なスタイルを確立しました。
特に、パリの壁面や看板、建物の一部などを粗い筆致で描いた作品が特徴的です。彼の筆遣いは非常に荒々しく、太い線や力強いタッチで描かれることが多く、風景や建物に独特の緊張感や重厚感を与えています。また、彼は黒や灰色、茶色などのくすんだ色調を好んで使用し、これによって彼の作品には一種の哀愁や孤独感が漂っています。
佐伯祐三の作風は、当時のパリの芸術シーンに強く影響されていましたが、その中でも特にエコール・ド・パリ(パリ派)の画家たちとの交流が重要でした。エコール・ド・パリは、モディリアーニやシャガールといった外国出身の芸術家たちが集まり、前衛的な作品を生み出していたグループです。
佐伯の作品は、これらの画家たちの影響を受けつつも、彼自身の感覚で独自のスタイルに発展していきました。彼は特にパリの庶民的な街並みや、雑多な看板、古びた建物の表情に強く惹かれ、それらを描き続けました。彼の作品は、細部へのこだわりよりも、全体的な印象や感覚を重視しており、粗く大胆な筆致で対象を捉える表現が特徴的です。
佐伯の代表作には以下のようなものがあります。
| パリ街角 | パリの街並みを荒々しい筆致で描いた作品で、彼の特徴的なスタイルがよく表れている。 |
| 広告塔 | 古びた看板や壁面を描いた作品で、彼がいかに日常の中にある風景を独自の視点で捉えたかが分かる。 |
| 郵便配達夫 | パリの労働者の姿を描いた作品。佐伯の人間味あふれる視点が感じられる。 |



1928年 結核を患い亡くなる
彼は1928年に結核を患い、30歳という若さでフランスで亡くなります。彼の死後、その作品は日本国内で評価が高まり、彼の描いたパリの風景は、多くの日本人にフランス文化やパリの街並みのイメージを強く刻み込みました。
佐伯の作品は、戦後日本の画家たちにも大きな影響を与えました。彼の荒々しい表現や、従来の写実主義にとらわれない独自の視点は、後の抽象表現主義や現代美術においても先駆的なものとみなされることがあります。また、彼の短い生涯や病に苦しみながらも情熱的に描き続けた姿勢は、多くの人々に感銘を与えました。
また、彼の故郷である大阪では、佐伯祐三に関連する展覧会や記念イベントが定期的に開催されており、彼の遺産は現代でも受け継がれています。
注目の画家④:フランス出身「モーリス・ユトリロ」
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo)はフランスの画家で、「エコール・ド・パリ」を代表する芸術家のひとりです。主に都市景観を描いたことで有名です。
1883年 フランスで生まれる
モーリス・ユトリロはパリのモンマルトル地区で生まれました。母親は著名な画家「シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)」です。彼女はユトリロにとっても絵画の師となりました。ユトリロの父親は不明であり、彼は母子家庭で育ちました。
母であるシュザンヌ・ヴァラドンは、フランス画壇の大御所「ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ」に大変気に入られていました。彼の絵のモデルを7年も勤めていたため「ユトリロの父親はシャヴァンヌではないか」という説もあります。
ユトリロは、幼少期から母親から愛情を受けることが少なく、特に精神的な不安定さに悩まされました。
1900年代 治療のために絵を描くようになる
大の酒好きであるユトリロの祖母・マドレーヌの影響を受け、ユリトロは中学生の時からワインを飲むようになります。
彼は若い頃からアルコール依存症に陥り、17~18歳で治療を始めるようになります。絵画を始めた当初は独学で、特に師事した画家はいませんでしたが、やがてその才能は高く評価されるようになりました。

ユトリロの作品の特徴は、独特の色彩と構図で、特に都市景観や建物を中心に描かれたものが多いです。彼が最も多く描いたのは、彼自身が住んでいたモンマルトル地区の風景であり、パリの下町の生活感や建物の佇まいを、繊細な筆致で表現しました。特に1910年代から20年代にかけて、彼の「白の時代(période blanche)」と呼ばれる作品群は、高く評価されています。この時期の作品では、白や灰色を基調とした色使いが目立ち、彼独特の静謐な都市風景が描かれています。
1920年代 さまざまな美術展で作品を展示する
1920年代以降、ユトリロは国際的にその名声を確立し、特にフランス国内外の美術展において多くの作品が展示されました。彼の作品はフランス国内のコレクターだけでなく、アメリカや日本など海外でも人気を集めました。1930年代にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与され、その芸術的貢献が認められました。
1955年 71歳で亡くなる
晩年は、精神的な問題がさらに悪化し、生活は困難を極めましたが、彼は制作を続けました。1955年、ユトリロはオート=サヴォワ県にあるダクスという町で亡くなり、モンマルトル墓地に埋葬されました。
まとめ
この記事では、藤田嗣治、荻須高徳、佐伯祐三、モーリス・ユトリロの4名の生い立ちや代表作を紹介しました。4名ともパリで長期間活動し、美術シーンにおいて重要な役割を果たした画家です。
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